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日本文化との出逢いが僕の人生を変えた理由

Posted by Danny Choo On 木 2012/06/28 05:29 JST In ジャパン
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僕はどのように日本文化を発見したのか、どうやって日本語を勉強したのか、なぜ日本で働き住むようになったのかを今日紹介したいと思います。
どこから始めればいいのか悩みましたけど、「第一日目」からでもいいかなと思いました。この記事を幾つかのセクションに分けてみました。

第一日目

僕はロンドンのイーストエンドで生まれ育ち、両親は中国系マレーシア人だ。幼かった頃は、両親が一日中一生懸命働いていて、とても大変な時期だった。親は家計をやりくりするのに忙しく、僕をいろんな家に里子として出すことになり、僕は子供時代のほとんどを里親の下で過ごした。里親の家ではひどい扱いを受けたこともあったが、両親もまた、お金や他の問題を抱えているのを知っていたので、僕はどうこう言う訳にはいかなかった。結局、僕は白人、黒人、そしてインド系の里親へと渡り、永遠に続くかのような長い時間をそれらの家で過ごすことになった。

不運なことに、ある里親は、彼らの子供達の僕に対する日常的な虐めを黙認しながら、僕の服を奪っては自分達のものにしてしまうような人達もいた。僕みたいな親がいない子供はさぞ虐め易かったのだろう。
彼らの家では、僕は迷惑がられ、出来る限り居心地を悪くさせられた。とある晩、帰宅した際に玄関のドアが開けっ放しになっていたという事件があった。家は滅茶苦茶に荒らされていて、空き巣に入られた事が分かった。僕は怖くなって泣き始めたら、その里親の家の年長の子供に「なんでお前が泣いているんだ!?ここはお前の家でもないくせに!」と怒鳴られた。

他に記憶に残っていることは、目に赤い斑点ができる程首を絞められたことだ。翌日、学校でその事について尋ねられた時は、手を滑らせてコップの中身が目に入ったと言うくらいの言い訳しか思いつかなかった ^^;

もう一つ忘れられない出来事は玩具のレーストラックでぶたれた事だ。僕がぶたれたのはゴム製でオレンジ色の線が中心を通っていたものだが、だいたいこういった感じの玩具だ。殴られた後は鏡の前に立ち、その鏡に写っていた緑色のジャンパーを着ていた自分の姿や殴られた箇所に出来た鮮やかな赤色の痣など、今でもはっきりと憶えている。

唯一、普通の生活に戻れたのは両親と過ごせる数少ない週末だった。週末になると父が僕を迎えに来てくれて、そのまま父と過ごすか、母の元に連れて行ってくれるかだった。しかし、時々父は仕事に忙殺され、僕を迎えに来れない日もあった。そんな時は、里親から父からかかってきた電話を渡され、その旨を聞かされた。電話を切った後は、僕はドアの上の小さな窓から外を眺めながら、階段に座り込んでよく泣いていた。僕は学校に行く時以外は一人で外に出ることを許可されていなかった。なので僕はベッド付の小さな倉庫みたいな自室に戻ることしかできなかった。あの頃、僕の唯一の友達だったバック・ロジャーズが彼の相棒ロボットのツイッギーと一緒に訪ねに来てくれたらなぁ、などと言う夢をよく見たものだ。

僕の子供時代は登校 > 帰宅 > 食事 > 時折テレビを視聴 > 自室に戻る、のパターンの繰り返し。

日本アニメを初めて見たのはガッチャマン(イギリスでは「G-Force」とも)だった。当時はこれといって重要だった訳ではないが、それが日本アニメだと知ったのは後の事だった。

上の写真は僕がある里親の元で暮らしていた時のものだ。学校でも楽しくない時間は続いた。あの頃の記憶と言えば、砂利の上を引きずられたり、袋叩きにされたり、持ち物を燃やされたり、フットボールの時間には常に顔を狙われたり、僕はここでも常に虐められていた。学校の校庭で図体のデカい輩に「もし俺がこのバットでお前の頭を殴って殺せば、俺は刑務所行きになるだろうが、その価値はあるぜ。」と脅された事もある。また、そんな奴に自分を殴るようにお願いして、手下にしてもらう事もあった。

感情を伴う記憶は脳がそれを長く保持しようと、その場で化学物質を放出するので、思い出しやすくなるらしい。人間もこの関係で喜び、悲しみ、恥ずかしさを覚える経験を簡単に思い出せるのだ。
皆さんが自分の子供時代を振り返れば、多くの記憶はそういった感情がミックスしたものだと思う。しかし、僕の子供時代には幸せだった記憶はない。唯一の例外はまだ両親と一緒に住んでいたクリスマスの頃、Blurton Road Hackneyにあった家のリビングのクリスマスツリーの前で、一家団欒していた事だ。

子供時代の頃を思い出すとかなり落ち込む時期もあったが、もっと辛い経験をしてきた他の子供達の事を考えると、自分はまだましだったと思えるようになった。

僕は学期を通して、完全にやる気がなく、科目は他のクラスメートが選択していたものを基準に選ぶなど、自分が人生で何をやりたいのか全くわからなかった。人生の目標や勉強に対する情熱もなく、学校の授業での成績は散々で、DやEばかり取っていた。僕の英語の文法が酷いのもこのせい ^^;

人生のどの時点だったかは正確に憶えていないが、僕はある時から再び両親と一緒に暮らすようになった。僕が引っ越すまで、2、3年は父と、その後は母と一緒に住んでいた。上の写真は去年母と撮ったものだ。僕は母が大好きなのでもう公営住宅に住まなくてもいいように、どこかに家を買ってあげたいのだが、彼女は絵に描いたような頑固者で、僕が家賃を支払う家ではなく、自分の家が欲しいのだそうだ ^^;

僕は2009年には破産寸前の危機に見舞われたので手元にはあまり資金はないが、最近はほんの少し持ち直してきた。とはいえ、母に家を買うとなると今ある貯金を全て使い果たす事になり、キャッシュフロー不足で会社の経営も困難になるので現状では難しい。

これがハックニーにある母の家。ここでの暮らしはすっっっっごく憂鬱だった。隣人は毎日一晩中レゲエをやかましく流していて、それも床板が震えるほど。

母はハックニーで3回も引ったくりに遭い、一度は、何者かに頭を殴られて気を失った事もある。僕が知らせを受けてすぐに病院に駆け込んだら、母の顔は乾いた血にまみれていて、母が盗まれないようにとバッグを抱えていた腕はあざだらけだった。

僕は自分と同じくカイリー・ミノーグが大好きな仲間達と出逢うことで、学校外で本当の友人を作り始めるようになった。BBCやカイリーの録音スタジオのStock AitkenとWatermanの外で待っている時にはよく友達ができた。僕のファン活動の写真はカイリー・ミノーグの記事でもっと見れるよ。

そして当時の僕の部屋はこんな感じ。カイリーが載っているほぼ全ての雑誌と新聞を買い集め、壁はその彼女の写真で埋め尽くされていた。

日本との初めての出逢い

僕はある時、輸入された日本の16bitゲーム機であるセガ・メガドライブに出逢った。そして僕は、次第にメガドライブから今後発売されるゲームソフトにも興味が湧き、情報を求めてロンドン市内の日本書店で雑誌を読むようになった。
当時はインターネットなどなかったので、日本の商品はこういう店でしかGETできなかった。僕がよく訪れていたJapan Centerには漫画、アニメ、アイドルなど、訪れる度に日本文化の新しい側面に出逢える書店だった。

壁一面に貼ってあるカイリーのポスターとメガドライブのゲームの山が写っているこの写真を見ても分かるように、僕の興味が「カイリー」一色から「日本」へと移っていったのは丁度この頃だ。テレビにはマクロスが映っているのもお分かり頂けると思うが、これは僕がロンドンのチャイナタウンで見つけてきた広東語版のものだ。
日本のものだという事を知った上でアニメを見たのはこれが初めてだった。僕はこのアニメーションのクオリティー、ストーリー、BGM、メカ、それと可愛い女の子たちに圧倒され、これを切っ掛けにアニメをもっと見たくなった。
当時はお金を稼ぐために、雑誌から切り抜いた写真をラミネート加工して、カイリーやジェイソンのカードを作って売るなどしていた。

どのように日本語を独学し始めたのか

日本文化は僕を魅了させ、人生で今まで感じた事がないような情熱と願望が目覚め始めた。僕は日本文化に関する知識をより深めたくなり、その為には日本語を理解できるようになる必要性があると感じ、独学で日本語の勉強を始めることに決めた。

僕は幼い頃に中国語学校に通う機会なんてなかったので、日本語の勉強はゼロからのスタートだった。辞書や教科書を手にいれ、基本的な文法は殆どそこから学ぶ事が出来た。

「らんま1/2」や「クレヨンしんちゃん」などのマンガからはたくさんの日本語を身に付け始める事が出来た。電車の中でマンガを読んでいて、意味が分からない単語に遭遇した時は、ページの隅に折り目を付けていった。
折り目がついたページの単語は帰宅後、折り目をそのままにした状態で調べ、もう一度マンガを読み返した際にその単語の意味を覚えていれば折り目を戻した。また、覚えていなければ折り目はそのままにして読み続け、自分がその単語の意味を覚えるまで同じことを繰り返した。

インターネットがない時代には当然YouTubeなんてものもなかったが、日本のテレビ番組を録画したVHSを貸し出している日本の書店をセント・ポールで見つける事が出来た。当時の僕は店のメンバーになる金銭的余裕は無かったが、店を営んでいた女性は僕がどれだけ日本文化が大好きかを知っていたので、ロンドン在住の日本人が見なくなった古い録画ビデオを僕に売ってくれた。録画内容が数ヶ月程古くても僕にとっては大した問題ではなく、とにかく「日本」というものを聞いて、この目で見たかった。

録画されていたテレビ番組はCMも含んでいて、家にいる時は常にビデオを流しっぱなしにしていた。そうしていると、まるで日本にいるかのような気分にさせてくれたからだ。この感覚はCMの時に顕著だった。「なるほど・ザ・ワールド」や「世界丸見えテレビ」などのテレビ番組や、「ひとつの屋根の下」などのドラマも観た。また、外出中にもウォークマンで聴けるように番組の音源をカセットテープにダビングし、常に日本語が頭の中で流れるようにしていた。でも、それでもまだ足りなかった。

自力で日本語を勉強する上で、僕は僕自身に宿題を継続的に課し続けた。この写真はA3サイズの紙に書き込んだ漢字表で、当時はこれが家中の壁に貼り付けてあった。ただ、母はあまりいい顔をしなかった ^^;

学びたい言語を書くということは、それを習得する上で大変重要なことだと感じた。人間は何世紀もの間、書いたり、会話したりするという変わらない方法で言語を学んで来た。インターネットが普及してからかれこれ15年程経ったが、脳は依然として従来の方法で言語を学べるように作られている。語学を勉強できるウェブサイトは数多く存在するが、それに完全に頼り切る事はせず、ペンを使って書いたり、喋ったり、体を動かして程よいバランスを取りながら学ぶ事をオススメする。

何かを記憶しようとする時は、脳にその情報が重要なものか、そうでないかを知らせる必要がある。そうでもしないと、それは潜在意識の奥底へ入れられ、思い出す事が困難になるからだ。
漢字や何か新しい言葉を学ぶ上で、僕が見つけた一番効果的な方法は、後で見つけやすいように単語や漢字にラベルを貼る感覚で、記憶する為の工夫をすることだ。
例えば「look」という意味の「見る」を覚えるとしたら、「Look at this gorgeous Meal!」っていう文を覚えれば、Mealと「見る」は音が似ているので関連付けができて覚えやすい。
本は漢字を覚える為の工夫を幾つか教えてくれるが、例えちゃちな風に思えても、自分で考えて工夫する事が望ましい。人間の脳はこういったちゃちな感覚に遭遇すると脳内で化学反応を促し、より容易に単語を記憶できるようになるのだ。

この去年撮った写真に写っているのはエンジェルと呼ばれているロンドンの場所だ。一時間も待たされた挙句に20台ものバスが連続で来ることで有名な場所で、いつまで経っても道路工事が終わらないことでも有名だ。

少し自力で日本語を勉強した後、僕は誰かと日本語を話したかった。そこで僕は週一、夕方にこのエンジェルで開かれている日本語のクラスに通うことに。
しばらくして、僕は先生に「人生でしたいことのひとつは日本で暮らし働くことだ」と話したら、先生は日本で外国人がそういうことをするのは無理だから、そのために努力するのは忘れるべきだと言われた。

僕はなぜ日本語の先生が生徒にそんなことを言うのか理解できず完全に混乱し、うろたえた。僕の目標ははっきりしていたから、僕のやる気をそいだり夢をあきらめろなんてことを言う人に従うわけがなかった。僕はそのクラスをやめ、誰かと日本語を話せる違う方法を探し始めた。

僕はこの時まで、ご覧の通りたくさんの日本の雑誌を買い集めていた。2次元の女の子と2次元の女の子のものもバランス良く ^^; 僕は最初はPCエンジンは持っていなかったけど、この雑誌の2次元の女の子が好きだったから買うようになった^^;

はじめに日本語を自分で勉強しようと決めたとき、辞書は使わずに、ゲームの英語名を元にカタカナをどう発音するのか解読しようとしました。
僕はカタカナの「ン」と「ソ」が全く同じに見えてすごく混乱していた。「ファミコン」の読み方もはっきりわかってはいたけど、どうしても僕にはそれが「ファミコソ」に見えてしょうがなかった。

ほとんどの雑誌はジャパンセンターで手に入れた。そこでは3ポンド払えばメッセージを貼れる掲示板があって、

「日本語と英語のランゲージ・エクスチェンジ・パートナー求む!
僕は英語で話すのでそちらは日本語で話してください。
興味がある人はダニーまで電話ください。番号は123 4567-8910です。」

ということを書いて貼った。
あの時はこうやって自分の番号をメモの上に書いておくことは特に問題なかったんだ。^^; その後、僕のところに電話がきて、何人かの日本人と友達できた。

ある日この雑誌の表紙をジャパンセンターで見かけたとき僕の心臓は飛び上がった。彼女の名前は西田ひかるといって、僕が人生で見た中で一番かわいい人だった!

彼女のことをもっと知りたくなったんだけど、それはつまりもっともっと日本語を勉強しなければならないということだった。彼女は歌手でもあったので、彼女のCDを全部そろえ自分も歌えるようになろうとした。日本のCDの素晴らしいところは、歌詞カードも付いてくるところだ。

他のアイドルにも気が移って好きになったりもしたけど、西田ひかるに一番夢中になっていた。雑誌の表紙を切り抜いて、A3サイズの紙にコピーしてつなぎ合わせて大きなポスターを作ったりしました。雑誌の表紙をずっと見つめている時にも、書いてある漢字や言葉を全部暗記した。

独学する上で僕は自分にゴールを設けようと思った。僕は日本語能力試験に申し込んで、12月に受ける試験に向けて一年中勉強した。4級に合格して、その次の年には2級に合格した。

この写真は最近撮影したもので、写っているのは全部イギリスに残してきたもの。ここに積み重なっているのは母が僕に買ってくれた日本語勉強用のテープだ。朝の早い時間にこれらのテープがカセットデッキで流れるようにセットしていた。僕は自分の周りのいろんな音が夢の中でも聞こえているということに気づき、浅い眠りの時にテープを聴くと自分を洗脳できるのではないかと思った^^; これが本当に効くかという確証はないけど、日本語を理解するスピードが上がったから、効いたかもしれない^^

ある夕方に、日本語能力検定を受けた後、テストセンターの外でチラシを配っている日本人男性2人がいた。そのチラシの内容とはロンドンのウェストエンドで開かれているランゲージ・エクスチェンジ・クラブについてのことだった。興味深くウェストエンドに向かって、そのクラブに入るとこんな光景を見た。現地の人と日本人が会話し合ったり。

そのクラブはで2人の会計士をしている日本人女性とイギリス人の夫婦によって運営されていた。彼らはこのオフィスを持っていたけど仕事には全てのスペースは必要なかったので、余ったスペースで「アクセル」というランゲージ・エクスチェンジ・クラブを開くことにしたようだ。週に2、3ポンドというとても安い値段で参加できた。写真の中心に写っているのが僕だ。

アクセルには日本語の電子ワープロが置いてあった。 僕はそのワープロを使って自分用に漢字表を作成したり、印刷したものを家中の壁に貼り付けたりしました。
ラミ加工して持ち運びできるように小さいやつも作った。漢字表の上に「西田ひかるちゃんの恋人」が^^;

さらにこの形容詞の表も作って、バスや電車を待っている間も読むために印刷して持ち歩いていた。うちのトイレの壁にも貼ってあって、おしっこやうんちしている時でも日本語の勉強ができた。

アクセルでは友達がたくさんできて、彼らとクラブ以外でも頻繁に集まっておしゃべりしたり、一緒にディナーに行ったりした。
言語は文化に基づき、より文化を理解すれば、言語も理解するようになる。ネイティブ・スピーカーと話すことによって、よりその文化を深く理解し、同様にその言語をより早く理解するようになる。

この時SMAPのみたいになりたくて髪を茶髪にした^^; 日本の雑誌をスキャンして自分用のTシャツも作ったりした。

僕のこの時の日本人の友達はそれまで知り合った中では最高の友達だった。僕の家でスナックをつまみながらカラオケをすることも結構あった。

この頃まで、アニメとマンガに対して燃えるような情熱を抱いていて、これらに関連する何らかの仕事につきたかった。当時イギリスにはManga Entertainmentという会社があって、「攻殻機動隊」や「プロジェクトA子」などのアニメを販売していた。その会社の社長にコンタクトを取って、マンガやアニメ、日本語に対する僕の情熱を伝えてあげた。
社長はこの写真に写っている「マンガジン」というファンクラブの雑誌を創刊することを決め、僕は編集者の一人として執筆することになった。

マンガジンに送られてきたVHSだ。僕はイギリスで発売される前のこれらのアニメを見て、レビューを書いたりした。僕の日本語はこの時点ではまだいまいちだったけど、むしろそれはもっと勉強に励むためのいいきっかけを与えてくれていた。雑誌の仕事のギャラはなかったものの、勉強のための経験というのはお金に換えがたいものだ。

どうやってお金を稼いだのか

これはハックニーのドルストンにある「メトロポリタン」という建物で、スタジオに改造された元病院だ。父親はこのメトロポリタンで事業を拡大しようとスタジオを借りた。ちなみに僕はここでカイリー・ミノーグとあった事もある。

父に最も感謝している事は、僕が自分の手で成功を掴み、自分で稼ぐ道を与えてくれた事だ。昔、父には僕が世話になっていた里親に養育費を払ってもらい、時折お小遣いも貰ってはいたが、母と一緒に暮らし始めた大学時代からは自分で自分の面倒を見るようになっていた。あの頃は、大学の学費は政府の補助金で賄われていたので助かったものだ。お小遣いは自分で稼がなくてはいけなかったので、最初の頃はこのメトロポリタンでパートとして父のお手伝いをしていた。

この写真は数年前、イギリスを訪れていた時に撮ったものだ。
父の元で働いている間は靴のデザインと製造工程に関する全ての事を学んだ。デザイン、型の切り取り、縫合や最終工程である甲皮の仕上げ作業も出来るようになった。ちなみにダイアナ妃の靴も作った事がある。

また、ElleやVogueなどのファッション誌とも一緒にお仕事をした事があり、モデル撮影に使うサンプル品を提供し、様々なファッションショーにも参加した。仕事自体は面白かったのだが、自分が人生でやりたいのはこれじゃないというのは感じていた。

日本語学習、アニメ、マンガ、ゲーム、日本人の友人達との交流を通し、僕は益々日本文化に惹かれ、ジャパニーズドリームを掴みたいと強く思うようになった。しかし、このバイトをやっている以上はジャパニーズドリームは掴めなかったので、父親のスタジオを後にした。僕は母親と一緒に住んでいたので、この後、父とは数年間会う事はなかった。

僕が最近作ったサンダルであるブラックロックサンダルの詳細についてはリンク先の記事にて ^^;

父のスタジオを辞めた頃は収入源も途絶え、あまりよろしくない状況だった ^^;
そこで僕はリチャード・スタノウスキというタレント事務所と契約し、アジア系の出演者が必要となった時に呼ばれ、テレビドラマやCM、ドキュメンタリー番組に出演した。

特に印象深かった思い出は、Discovery Channelの花火に関するドキュメンタリー番組を田舎で収録していた際に、複葉機が低速低空飛行で出演者とカメラの前を横切った瞬間だ。僕はその透き通るような青い夜空に映った光景を目にした時、背筋がゾクゾクし、この人生で何かを成し遂げたいという気持ちが芽生えた。

ちなみにこの写真は「レッツ・オシャベリ」という出版物で、イギリス国内の日本人が基礎的な英語フレーズを学ぶ教材だ。僕はこの出版元で、英語を日本語に訳すアルバイトの仕事も見つけた。

当時は、Elephant and Castleにあった大学に通い、ビジネスコースを履修していて、ここの授業料も補助金で賄われていた。

紅花という日本料理レストランでもアルバイトをやっていた。仕事内容は包丁を投げ回して客を時折病院送りにする料理人ではなく、ホールを走り回るウェイターだった。作業と言えば皿運びや皿洗いで、皿を割る事もあった ^^;

紅花を選んだのには幾つか理由がある。その一つは、紅花に沢山来る日本人のお客さん達と日本語で話す機会があったからだ。
もう一つの理由は、日出ずる国へのチケットを買う為の資金を溜めたかったからだ。日本に行って、出来る限り日本文化を吸収するというのが目標だった。

初めて支給された給料は今でも覚えている。タフなスケジュールをこなしても、明細にはほんの数桁しか記載されていなかったが、始めから期待してはいけないのは分かっていた。日本へのチケット代と余分のお金を蓄えるのには一年も要した。そして来日後はイギリスへ帰国し、翌年の日本旅行に向けて再び紅花で働き始めた。

そして遂に、今迄アニメ、マンガ、雑誌、ドラマで見てきた日本に初めて訪れる日がやって来た。電車が成田を出発し、いくつかの小さな町を通り過ぎていくにつれ、僕の心は高鳴っていった。辺りを見渡せば、カタカナ、ひらがなや漢字があっちこっちにあり、自分が日本に辿り着いた事を改めて再認識した。

僕にとってこの旅は、滞在中のほぼ全ての日の出来事を思い出せる程に、とても感動的な時間だった。コンビニの自働ドアのセンサーの感触、天ぷらの味、ジメジメした夏の熱気の匂いや周囲を飛び交う日本語などが僕の全ての感覚をオーバーロードさせた。

幸いイギリスでは沢山日本人の友達が出来たので、日本では彼らの家族の家に泊まらせてもらった。場所は多摩川、埼玉や広島など色々だ。

僕は渋谷を訪れてはこの場所に座り、ハチ公前交差点を一日中眺め、雑踏と人々の会話を聞きながらここに住めたらなぁ、とよく夢見ていた。

僕はイギリスでも日本で過ごした日々を再び味わえるよう、なんとかしてその時間を保存して持ち帰りたかった。とはいえ、当時のビデオカメラはロケット砲並みの大きさで、とても手が届く値段ではなかった。なので代替案として上の写真に写っているミニディスクとマイクを買い、渋谷の環境音や人々の会話を録音した。

人生の初めての目標 : ジャパニーズドリーム

イギリスに戻った後、部屋の周りにスピーカーをセットし、渋谷で録音した音源を流し、目を閉じた。その瞬間に渋谷に戻った気分になった。
紅花で十分なお金を稼ぐまで、もう一年日本にいることはできないということは知っていた。けれど渋谷の音を聞いているととてもやる気が上がり、日本語を勉強している間、いつもその音を流していた。

この写真に写っているのは僕の最初の机で、壊れたスピーカーにグラス一枚。この時点で僕は何度か日本に行っていた。日本に住み、働くことは実現させないといけない夢だ。壁に貼ってある新宿の黄昏のポスターを見ては、毎日繰り返し自分にこう言い続けていた。

「絶対に僕は日本に行く」
「絶対に僕は日本に行く」
「僕は日本に行くんだ」

キッチンの壁には僕が日本で撮った写真に囲まれて何枚か西田ひかるの写真も貼ってある。家にいるときはなるべくどこ見ても日本の物が目に入るようにした。

キッチンでのもう一枚の写真。壁に掛かっているポスターは広島の黄昏。その下にあるのは作った漢字表の一枚。

日本でのある日、西田ひかるのコンサートの列で待っていると、近くにいた男性に声をかけて自己紹介することにした。彼も僕と同じく西田ひかるのファンなので、話すことがいっぱいあった。その人といい友達になり、彼も自分の友達を紹介してくれた。好きなことで沢山の友達と繋げるのは嬉しいことですね。
そしてなんと、その人と10年後はアマゾン時代でばったり会った。

日本で買った戦利品。全ては日本語を勉強ための本やゲームだ。本当です。

僕は西田ひかるのことがとっても好きだった。このイラストでは僕と彼女が僕が覚えている東京の街風景で抱き合っているwww。

ひかるに会うことは僕のもうひとつの夢でもあった。とある日の夜、花束を持って新宿の厚生年金会館の外で彼女のコンサートが終わるのを待った。僕はローラーブレードを履いていて、でてきた彼女の車を追いかけて信号で止まったところで追いつき、花束を渡そうと計画した。
でも会館にいたスタッフ等は僕のことに気づき、彼女の車が出てくる直前に彼等に殴られ、車が完全に去るまで僕を地面に押さえつけていた。

ひかるの車が去ってしまってから、スタッフは僕を道の真ん中に放置し、殴られ蹴られた僕はでクラクラしながら立ち上がった。花束はなんとか大丈夫だったので、花束を拾い、ひかるの車が走っていった方向へローラーブレードで追い駆けた。運命よく、彼女の車は信号で足止めされていた。ひかるさんは窓を開け、申し訳なさそうに僕の花束を受け取ってくれた。スタッフが僕を押さえつけたのは彼女の意思ではないと思う。少なくとも僕はそう思いたいな。^^;

僕は次の年、同じ時間の同じ場所で同じことをしようと、この時はあまり目立たないようにうまく隠れていた。不幸なことにこの時は運命は味方してくれず、交通信号ずっっっと青のまま。自分の肺が破裂しそうになるまで、新宿の道のど真ん中を、花束を持ちながら彼女の車を追いかけたのを憶えている。喘息で死にそうだった。

パチンコ屋の前で座り込み泣いていた。一人の女性が僕のところにやってきて大丈夫かと聞いてくる。僕は大丈夫だと彼女に伝え、「よかったらこの花どうぞ」と。この写真はその時に撮った。

日本で働くことに近づくためのステップとして、日本語を大学で勉強する必要があると感じた。これまで独学で勉強してきたが、僕の日本語は話し言葉に過ぎなかったので、大学で自分の日本語能力を磨き上げずには日本社会で成功することはできないと思った。
ロンドン大学の学士課程に入学した。4年間のコースだったけど、編入試験を受かり、直接2年生に入学した。僕は同時に韓国語のクラスもとっていた。

これは当時の宿題。

妻とどこでどのように出逢ったのか

大学に通っている間のほとんどは、紅花でアルバイトしていた。月曜から金曜、休日の多くも働いていて、まるで社員のような感覚だった。17時から深夜までが殆どだった。宿題をする時間も取らなくてはいけなかったので、他のスタッフと日本語を話せる場でもあるスタッフの食事の時間にいつも宿題をやっていた。

紅花は僕が妻と出会った場所でもある。彼女もそこでウェイトレスとして働いていた。もし僕が日本文化に興味がなければ、僕は多分日本レストランで働いてはいなかっただろうし、彼女にも出会っていなかっただろう。

両親は、僕に広東語で話していたけど、幼い頃に中国語学校に行く機会がなくて、中国語の読み書きの勉強もしなかった。妻と出会った後、彼女の家族とコミュニケーションをとれるように中国語を勉強したいと思い、この写真のような中国語を勉強するための日本語のテキストを使って独学で勉強した。

結婚する前、妻と僕は一緒に暮らすことにした。これはEarls Courtにある僕らが住んだ借りアパートだ。アパートはとても狭くて、ふとんをしけばスペースが殆どなくなってしまう。

この部屋に虫が住み着いていて、僕をずっと刺した。大家はそれに対してなにもしようとはせず、契約は一年だけにとどまった。結局、僕らは別の床板を買って、虫だらけの床を覆い隠した。

右は僕らのキッチンで、洗濯もここの流し台でやった。左がシャワー室。ここは狭くて窮屈だけど、大事なのは一緒に住めることだった *^^*
昼は大学の授業を受け、夜は妻に紅花で会った。僕らは深夜まで働いて、自転車をこぐ彼女のあとを僕がローラーブレードで追う感じで、一緒に家に帰った。

Earls Courtに一年ぐらい住んだあと、僕らはもっと安いところに引っ越すことにした。ロンドンのWhite Chapelに友達の家をひと部屋借りた。キッチン、風呂、トイレは共同。

家賃安かったので、写真に写っている後ろにあるパソコンを買うためのローンを組むことができた。1600ポンドくらいかかった!4GBハードディスクのWindows95と56K(256Kだったかな?忘れた)のダイアルアップモデムを手に入れた。僕はこのパソコンで自分のパソコンスキルを身につけた。

パソコンで日本語を使いたかったけど、多言語機能はなかった。ハードディスクをFDiskで分け、英語と日本語のウィンドウズが使えるようにImage Magickをインストールしたり、パソコンのいろんな方面を独学し始めた。

まだ大学にいた頃に、僕は紅花のバイトを辞め、Oxford Circus付近にある「イケダ」というレストランでアルバイトすることにした。

イケダを辞めたら、日本航空のバイトを見つかった。そのバイトではロンドン空港で日本人観光客を案内したりしました。

そして大学を卒業した。イギリス全国の10%の大学生しかとれない「1st Class」をなんとかとれた。嬉しかったよ。以前は学校で落ちこぼれになりそうなのだが、パッションを感じる科目を勉強するといい成績はとれるはず。

日本航空時代 : 初めてサラリーマンになった

卒業後、日本航空は正社員になりませんかと誘ってくれた。面接に合格し、日本航空のコンピュターエンジニアとして働くことに。
これはロンドンのHammersmithにある日本航空の事務所で撮った写真。左下にある机が僕とこだ。

日本航空での僕の仕事はヨーロッパ圏の日本航空の予約システムを管理することだった。仕事の空き時間の間、HTMLを勉強して会社のイントラネットを作り始めた。グラフィックソフトの使い方も勉強し始めた。

この写真ではイタリアに2,3日滞在して日本航空の端末をメンテナンスしているときに撮ったものだ。見てのとおりかなりレトロな端子だ。そのうちいくつかは何年も使われていて黒い電気すすにまみれていた。中を開けるのはかなり危険でゴム手袋を身につけなければならないほどだった。

どうやって日本に辿り着いたのか

僕が大学卒業後にロンドンで就いた初めて仕事は日本の会社である日本航空だったので満足できる職場でした。おまけにスタッフの何人かは日本人だったので、沢山日本語を話す機会もありました。
とはいえ、僕は未だに日本に辿り着けずにいたので、日出づる国に住み、働くというジャパニーズ・ドリームは決して忘れられませんでした。

僕はそれからネットで仕事を探し始めるようになり、Peoples Firstという求人サイトで目を引く求人広告を発見。仕事は東京に拠点を置き、内容は「東南アジアでのウェブマーケティング。日本語/中国語に堪能でインターネットができるネイティブの英語話者求む」というものでした。

数日後、応募先から面接の連絡が届き、面接官は当時面接を行う為にイギリスを訪れていたネイチャージャパンジェネラルマネージャーのデイビッド・スウィンバンクスになるというお知らせがありました。彼との一時間に及ぶ面接では日本語の科学記事を読むという課題も含まれていました ^^;
ネイチャージャパンは韓国でもマーケットを広げていた為、韓国語は業務上便利だったらしく、デイビッドは韓国語も話せる人材が見つかるとは思っていなかったようです。

一次面接終了後は帰宅し、上の画像のような「ネイチャー韓国」のウェブサイトの簡単なモックアップを夜通しで作成しました。当時、ネイチャーには韓国版のサイトがなく、僕が面接中に韓国向けのサイトの戦略的重要性について触れたのが事の発端でした。作成したモックアップはフロッピーに保存してスクリーンショットを印刷し、デイビッドが泊まっているホテルを人材紹介会社を通して探り当て、資料を彼の部屋のドアの下から差し出しました。

その晩、人材紹介会社からデイビッドがもう一度僕と会いたいという一報が入り、彼が僕の届けものに喜んで頂けた事が分かりました。デイビッドと再び合うと、今度は東京にあるネイチャージャパン本社に一週間に及ぶ面接と試験を受けに来てくれと言われました。また、現段階では航空運賃と宿泊代を出すだけで、採用が保証された訳ではないとも言ってました。後は自分の力で乗り切るしかありませんでした。

僕は東京に向かい、市ヶ谷にあったネイチャーの事務所に一週間通い続けました。事務所では今迄経験した事のない売り上げ予測を立てる課題が出され、理にかなったアルゴリズムを考え出す必要がありました。僕はエクセルを使い、前年度のデータに基づいた売り上げ予測を立てましたが、外的要因は考慮しませんでした。
季節等の要因がどのように売り上げに影響を与えるか分からなかった為、予測は外れましたが、僕は数字を弾き出す為に最善の努力は尽くしました。

しかし幸いな事に、デイビッドは「既に出来る」人よりもむしろ挑戦する意欲のある人を探していたそうです。
ちなみに大学では中々学ぶ事が出来ない科学論文の翻訳作業などもやらせて頂いてました ^^;

試験と面接が詰まった一週間も漸く終わりが訪れ、僕がデイビッドの椅子に座ると彼は「東京に来てくれてありがとう。君がイギリスに帰ったあとに結果を伝えるよ。」と声を掛けてくれました。
すると僕はこの先12時間、飛行機の中で返答内容を心配する自分の姿を想像し、デイビッドに「採用の可否を心配するあまり、手足の指を全部噛み千切ってしまいそうです。可能であればイギリスに戻る前に結果を教えて頂けると嬉しいです ^^;」と打ち解けました。
デイビッドは笑い、週明けに電話すると言い残しました。

僕はホテルに戻ると、ストレスに苛まれましたが、やれる事は全てやったという事だけは確かでした。こういうチャンスのために僕は2-3年前から日本語だけではなく、パソコン技術も勉強し、巡って来たこの機会を使ってベストを尽くしました。僕はどうしても、なにが何でも日本にいなければいけなかったのです。

その夜、そうしているうちに僕は泣き崩れながら眠りにつきました ^^;

そして、雨が降っていた翌日の日曜の朝、ホテルの電話が鳴りました。デイビッドでした。

片道のチケット

その電話の結果では、1999年7月、僕と妻は友人の家からの荷物をまとめて日本行きの片道航空券を受け取った。夢が叶った。僕は日出ずる国で働き、暮らしに行くのだ。過去何年の苦労が報われた。情熱を発見し、生きていけば結果は自ずとついてくる……いつだってそうだ。絶対にあきらめない。自分自身に壁を作ってはいけない、そして特に他人が自分に対してその道を遮るような壁に自分を止めさせてはいけない。自分の心に耳を傾け、ひたすら前に進め。

必要なものはすべて整った。新しい人生始まるために銀行にお金は少しためてあった。あとやり残したことといえば父にお別れを言うことくらいだ。

日本に引っ越す直前に撮った、父と彼の奥さんと妹だの写真だ。妹はいまサンフランシスコに住み、インテリアデザインを勉強している。

父親のビジネスを継ぐ意思は全くありません。僕は現在日本で幸せな日々を送り、自分の会社も持っている。2次元の子と関わらない仕事なんて考えられない!僕の会社は最近儲かるようになり、生活に支障はない。

財産が残されても、お金は学校を建てたり、世の中の不幸な子供達に役立つことに使いたい。

キャリアをどのように日本でスタートしたのか

ネイチャージャパンで仕事中。当時はMacを使っていたんだけど、それがとてもいやだった!僕はマーケティング調査をして、購読契約処理、ポータルサイトの制作、翻訳のチェックなどの業務していました。

初めて住んだところは東京の東伏見にある小さなアパートだった。それほど広い場所ではなく、押入れの棚をこんな風に机みたいにして使っていた。
日本に引っ越してから一年後、dannychoo.comというドメインを立ち上げ、独学していたMYSQLやHTML、CSSなどのスキルの実験場にしました。

ぬるま湯に浸かれると危険

さて、「安全地帯」について少し触れておきたいと思います。英語では僕は「Safety Zone」と言います。
「安全地帯」とは人が自身の状況に満足している状態であり、日本語だと「ぬるま湯に浸かれる」の表現と同じ意味だと思います。

ネイチャージャパンは働く場所としては最高だった。いろんな社会勉強ができ、日本語のレベルアップもでき、会社にも色んな面で貢献することで、やりがいのある仕事と感じた。
しかしあるとき自分が最も危険すべき状況である「安全地帯に陥ってしまったことに気がつき始めた。

人間が基本的に必要な条件は、「食」と「住」。快適な場所に居るということはこれらの条件を満たしていることになる。自らの情熱を追及したいと思っていても、これらの条件を失うということにつながるリスクが存在する故に、安全地帯を抜け出すことなく、そこに落ち着いてしまう人は世の中にはたくさんいる。

人間の行動の原動力は「必要性」だ。もしそこに必要性が無ければ行動をおこすことはほとんど無い。人が生きていくうえで、必要不可欠な条件が満たされれば、他に必要なものは基本的に何も無いのである。

でも、安全地帯の中にいるということに気がつくことは良いスタートであり、僕が安全地帯からから抜け出し、東京中のリクルーターを訪ね回るきっかけになった。
この安全地帯から飛び出すことが、続く2、3ヶ月の間で僕の人生を大きくに変えることになった。

新たに仕事探しをしている間、ジョブドラゴンというリクルートサイトを見つけた。そこで僕が探していた分野の仕事を選び、履歴書を投稿した。そしてそのジョブドラゴンのボスであるマークさんから会って話がしたいとの電話があった。いざ、そのミーティングに行ってみると、マークが僕のウェブサイトをプリントアウトしたものを持っていたことに僕は驚かされた。「これは本当に君がやったの?」と、マークはデザインのことを聞いていた。上のスクリーンショットが、そのマークがプリントアウトしていた物。すごく恥ずかしかった!

青い物体は全部3D Maxで作られたもので、レイアウトはDreamweaverで作りました。マークとの出会いのきっかけで、オンラインプロフィールを持つことがいかに重要なことかを学んだ。この時から、僕のオンラインプロフィールは僕がキャリアを積み上げていく上で不可欠な存在で、皆さんにも自分のオンラインプロフィールを作成することを強くオススメする。それがただのLinkedinのアカウントだとしてもだ。

そこでCTOのニックさんが登場し、僕が彼らの元で働けるかどうかについて話し合いました。会話の中で僕はジョブドラゴンに携帯サイトがあればサービス利用者が増加すると助言しました。

1999年から2001年の間は貯金に専念するべく、携帯電話を買わないよう妻と決めていました。しかし僕としてはJob Dragonのモバイルサイトを作り、彼らに僕が仕事ができる事を説得したかったので携帯2台を投資として購入に踏み切りました。当時作ったJob Dragonのモバイルサイトのスクリーンショットはありませんが、丁度同時期に作ったdannychoo.comのモバイル版はこんな感じでした。

ニックさんは僕が作ったJob Dragonのモバイルサイトを気に入って頂けましたが、ネットで更なるテストを受けるまでは納得しませんでした。彼はHTMLとDreamweaverのテストが受けられるサイトのリンクを送り、僕はどちらのテストにも合格し、晴れてジョブドラゴンのコンテンツプロデューサーとして正式に採用されました。

僕のことを信じ、日本へ連れて来てくれたデイビッドに辞表を手渡さなければならないのはとても辛かった。マーケティングに関して僕は何も経験が無かったが、デイビッドは僕の可能性を見出していた。

この写真は表参道にあるジョブドラゴンのオフィスの僕の机で撮られたものだ。
ジョブドラゴンに入社して大体3ヶ月後、会社運営が厳しくなり、僕とその他数人を解雇しなければならなくなった。初めての解雇経験だった。ボスのマークさんはそのニュースを伝えるために僕を含めた3人を部屋に呼んだ。マークさんが泣きはじめ、僕もとてもショックを受けた。結果、ジョブドラゴンで働き出して2,3ヵ月後に解雇されるためだけに僕はネイチャージャパンでの安定した仕事を手放したことになる。

でも、人生において起こる全ての事には理由がある。全ての出来事は、その人が人世という度の旅の中で集めていくジグソーパズルのピースだ。

ジョブドラゴンはレクルート会社だったので、業界でたくさんコネクションがあり、僕らをそのままほったらかしにするようなことはしなかった。

僕の履歴書はイーベイジャパン(ebay)やアマゾンジャパン(amazon)などの会社に送られた。たくさん面接を受けたら4つ同時にオファーが来てしまった^^; アマゾンの渋谷オフィスで何度か面接を受け、電話でシアトル本社のいろいろなプログラムマネジャーと話をした。面接を繰り返した結果、上司のアンさん(Anne)が僕がふさわしい人物かどうかを確認するために日本へやってきた。

これがその面接で尋ねられた質問だ。あなたならどう答えるだろう。正解不正解アリで、技術的なことは答えなくても良い。面接を受けている最中であるというだけで、他の人が期待するような答え方はしない。どう答えるだろう?

あなたは現在あるサイトの機能拡張に取り組んでいます。あなたのスタッフは全員それに取り組んでいます。あるビジネスオーナーが(それはマーケティングだったとします)数百万円の売り上げにつながる数千のユーザーの増加を期待できるようなウェブサイトの機能を至急立ち上げるようにあなたに伝えます。あなたはどうしますか?

そのとき以来、僕がアマゾンで面接した人たち全てに同じ質問を使うようになった ^^;

イーベイとアマゾンが僕の採用を決定した後、僕のリクルーターはその両社に物に入札するような競争をさせた。リクルーターが僕年俸のおよそ30%の手数料をもらうことになるので、なるべく多く出してもらうことにした。最終的にはイーベイがより良い条件を示してきたが、僕はアマゾンを選ぶことにした。オークションよりはe-コマースのほうに馴染みがあったからだ。
ジョブドラゴンは僕を雇って、解雇して、新しい場所を用意してくれた。彼らが僕をアマゾンに紹介した上で得たその30%は僕がジョブドラゴンで働いていた3ヶ月の給料より多かった。

アマゾン時代

ジョブドラゴンのレクルート担当ラスティーさんが僕に「お前はアマゾンのウェブサイトマネジャーになってもらうぞ」と言われた時は、あんまりにも大きい仕事だったので、ラスティーのことだったから、彼の言ったこと信じなかった^^;

ネイチャージャパンを去って数ヶ月後、僕はアマゾンのマネジメントチームのメンバーとなり、アマゾンジャパンのトップであるジャスパー・チェンと共に会社を運営していた。僕はウェブサイトプロダクションを全面的に担当することになり、僕を手伝ってくれる30人のすばらしい部下達を持っていた。

2,3ヶ月前は安全地帯にいた僕だが、世界でも最大のウェブサイトの一つを任され、アマゾンのたくさんの株ももらって、 気がついたらネイチャージャパンでの給料の3倍を稼いでいる自分がいた。

その新たな環境は大きな挑戦だった。アマゾンの技術は驚くべきもので、僕は完全に疎外感を感じていた。僕は人を管理することに向いていると分かるようになり、ベンダーマネージメント、バイヤー、マーチャンダイジング、ファイナンス、リーガル、リテール、マーケティング、ウェブサービス、広報、人事、サプライチェーン / オペレーション、ITなど、たくさんの部門と共に仕事をしていく上で新しい日本の言葉を学び始めた。
僕がアマゾン時代で撮った写真はこの記事で見られます。

給料が上がったことで、もうちょいましなとこを借りることが出来た。しかし生憎欠陥マンション当たってしまったToT
ご覧の通り当時はWindows派だった。この時点で僕はガンダムに影響を受け始め、何個かガンプラを組み立てた。

どのようにアフィリエイト収入を稼いだのか

2003年、アマゾンはAmazon Web Service (AWS、アマゾンウェブサービス)を立ち上げた。どんなディベロッパーでもXML形式でアマゾンのカタログデータにアクセスできるAPIだ。AWSで誰でもアマゾンのカタログデーターでオンラインショップを構築することができる。

僕は日本でそのサービスを立ち上げるために、シアトルのAWSチームと一緒に取り組んだ。このスクリーンショットは僕が構築した「ミツカッタ.COM」というAWSサイトだ。アマゾンのカタログデーターを利用し、アマゾンの商品を引っ張って表示している。

アマゾンの偉い人たちはこのサイトを大変気に入ってもらい、日本でそのサービスが公式に立ち上がったときの記者会見で例として使うことを決定した。そのサービスはまだ若かったし、更に良くするためにもっとAWSに携わりたかった。

サーバーサイドキャッシングやSEOなどのようなことを学びだした。僕はアフィリエイトタグを使うことはアマゾンに許された。もし誰かがサイト上のリンクを通して製品を購入した場合、アマゾンから手数料がもらえるということ。

始めは月に6000円ぐらいの電話代を払うお金を稼ぐことができればいいと思っていた。ミツカッタ.COMを最適化するのに必要な情報はグーグル先生から学び始め、学ぶほどより多く稼げるようになっていった。僕はこれらの学んだことをアマゾンにフィードバックし、毎月の電話代を払うどころか、想像していたより更に多く稼げるようになった。
このスクリーンショットでは2800万円という数字が、たった数週間で僕がアマゾンに貢献した売り上げ額だ。そのお礼として、アマゾンから1,857,732円の紹介料を頂いた。
もしこんなウェブサイトをもっと作れば、お金はもっと入る計算となるだろうと思い、大体30個くらいの全て異なったデザインのサイトを作った。

なぜシアトルに引っ越したのか

アマゾンウェブサービスはもともと外部向けのサービスだったのだが、内部でも使えることに気づき始め、AWSで運用されるアマゾンサイトのプロトタイプを僕一人で週末の間に作り始めた。普通ならたくさんのスタッフがいても数ヶ月かかるようなことが今一人のディベロッパーが数日間でできるようになっていた。作ったプロトタイプは社内のたくさんの技術者たちの目を開かせるものになった。それはAWSがいかに強力なものであるかを証明するものだった。

ジェフ・ベゾス(アマゾンのCEO)の部下であるディエゴ・ピーセンティーニ氏は僕が作ったプロトタイプを評価し、彼の下でシアトルで働かないかというオファーを受けた。僕はそのオファーを受け、2004年7月にシアトルへと引っ越した。日本のことは大好きだったけれど、妻と僕はこの機会はキャリアに重要な選択と思っていた。

この写真はシアトルのアマゾン本社の外で撮った。

アマゾン本社での仕事は気に入ってはいたが、なかなかシアトルでの生活にはなじめなかった。アメリカの生活になじむようとしましたが、やっぱり僕には合わなかった。時間が止まってしまったようだった。おそらく僕には東京の活気のあるペースに慣れてしまっていたのだろう。

僕がシアトルの生活になじめなかった最大の要因は日本を去るまで日出ずる国を僕がいかに愛していたかに気がつかなかったことだ。シアトルでもずっと日本のテレビ番組を見ていたことを覚えている。ロスト・イン・トランスレーションも何度も何度も見ていた。日本に帰りたかった。

次は何をしようか考えながら長い月日が経った頃、辞表を提出して妻と日本へ帰る準備をしていた。とても辛い決断だった。それは僕たちが日本へ戻るためにここまで上り詰めた地位を捨てるということを意味した。それでも、人生、金銭的に快適になることが全てではない、情熱のままに生きることだ。僕はそれをシアトルで実現できなかった。

イギリス、日本、アメリカ、そしてまた日本、と動き回ることを妻はどう思うだろう? 彼女の答えはいつも同じだ。ずっと一緒ならどこに住んでいようと関係ない、と。もう14年も共に生きてきた。妻は中国、日本、イギリス、アメリカと僕より多くの国で生活してきた。

この写真はちょうどアメリカを去る前に撮ったもの。もし僕らがアメリカにいるのは半年だけということをわかっていたらもっとアメリカを見回っていたと思う。後悔しているのはアメリカにいたときの生活を記録しておかなかったことだ。写真もあんまり撮っていないし。今はこうしてブログで定期的に写真を撮って一週間の東京シリーズで僕らの人生の記録をとっている。

僕はディエゴさんに日本に戻りたいということを伝え、そして彼を失望させてしまったことを謝った。僕は辞表を彼に手渡した後、日本に戻る準備をするつもりだった。ディエゴさんは僕に会社に残って欲しいと言い、アマゾンは僕らの旅路の面倒を見てくれるとのことだった。
日本での僕の新たな責任はアマゾンが買収した中国の通販サイトJoyo.comのウェブサイトマネージャーだった。これはJoyo.comのスタッフと一緒に撮った写真だ。

2004年、僕がまだシアトルにいた頃、このサイトのブログ機能を追加した。その頃は主にガンダムやフィギュア、日本での生活についての記事を書いていた。

アマゾンのアフィリエート収入で一戸建てを目黒で買うことが出来た。娘のあおいちゃんがこの記事でうちを紹介している。

副業は今の会社の始まり

まだ社員だった頃には口コミでの依頼を受け、副業でウェブサイトを作り始めた。インドやルマニアの現地のデベロッパーをリモートでサイトを作ってもらったりした。個人事業を開業しその屋号を「MIRAI」にした。理由は、この個人事業は僕の未来の始まりだったからだ。

マイクロソフト

2005年、僕はアマゾンを辞め、マイクロソフトジャパンに入社した。担当していたのはCGMサービスのいろいろ。

2007年にマイクロソフトを辞め、MIRAI株式会社を設立した。当時は妻と二人会社だった。これは当時のオフィスの写真。

病気と友に生きる

生きている限り、人は誰でも病気に遭遇する。これらの病気のうちいくつかはただの風邪みたいに来ては過ぎ去っていくものだけど、何人かの人はこういう病気にも一生付き合っていかなければならない。そしてさらに何人かの人は病気を患って生まれてくる。
僕の喘息が生まれつきなのかどうかはわからないが(両親は喘息だった) 、子供の頃は吸入器を持ち歩いていた。最近はめったに吸入器を使うことはないけど。生まれつきのものではなかったけどその病気は2008年に脊髄ヘルニアだと診断された。
背中の下の辺りの椎間板の一部が破損して、脊髄から通っている神経に刺さっていた。これは足に痛みを引き起こす。痛みは現れては消えたりしいていたが、一度ひどい痛みが襲ってきたことがあった。脊髄の椎間板は磨り減っていくものだが、どうやら僕のはすでにやばくなっていた^^; このMRI画像を見て分かるように、白くあるべき椎間板のほとんどが暗くなっている。椎間板が磨り減っていくと、脊髄はひどい場合だと歩けなくなるくらいの痛みをもたらすくらいに影響され始める。

その病気だと診断されたとき僕は途方にくれ、いつか歩けなくなるんじゃないかという予測に憂鬱になったことを憶えている。でもしばらく考えたあと、僕は最終的に車イスを使うようになるまでできるだけ一生懸命生き、働き、遊び続けるようと決めた。もし自分に限られた時間しか残されていないのなら、憂鬱になるのに時間を費やすより、 僕はむしろ楽しみたい。
僕は楽天的であり続け、全ての脊髄ヘルニアが歩けなくなるほど悪化するわけではなく、同じ病気にかかった多くの人がリハビリの後痛みを感じなくなったことを知った。僕のリハビリはうまく効きそうにはないようだけど、痛みとともに生きていくことを身につければ特に憂鬱になるほどのことでもない。くしゃみは死にそうなくらいやばいけどね!
まぁ傷ついた舵で船を帆走しているようなものだと思う。今のところ船は大丈夫なようだ。

日本の文化をブログで世界の皆さんと共有し続けることにより、ユーザーが世界中に増えました。海外の方が特に好きなのは、僕が書いている「一週間の東京」、「日本の見所」と「指南」のシリーズだ。そのうちに世界各地からの講演オファーも受けました。これはドイツのカンファレンスで「オタク」や「CGM」について講演しているところ。

なぜか僕が撮っている日本ポップカルチャーの写真が世界中に評価され、ニコンのCMにも出ちゃった。僕ボタン押しているだけなのに ><


そして、たまに白いアーマーを着て踊ろうとしています。全然踊れないですけど^^;

MIRAIがやっていること

これはスタッフのクリスだ。MIRAIでは日本の文化を世界に発信するのが仕事だ。現在のクライエントでは、グッドスマイルカンパニー、ブシロード、電通、日本経産省、キングレコード、角川書店、アスキー・メディアワークスなどがいます。ウェブやマーケティングの手伝い、講演やイベントの手配などなど。去年やっていたことは2010年のまとめ記事で見ることが出来、他にやっていることは僕のプロフィールページでリストアップしています。
あ、そういえば、うちのマスコットキャラ末永みらいちゃんにもちょい力入れている^^

今の仕事での一番嬉しいことは、世界中のいろんな人たちと出逢えることだ。これは去年のアニメイベントANIME EXPOで撮った皆さんとの集合写真だ。世界各地のアニメイベントに行って日本の文化を皆さんとシェアしています。また僕のTwitterFacebookを通して沢山の出逢いが世界中にできて嬉しい(涙)。
日本文化はアニメを通して何気なく皆さんは知っているなのだが、日本のことをもっともっと知ってもらいたい。

今の仕事では毎日いろんな出逢いがあり、その新しい絆は自分の人生を豊富にしてくれます。こちらは東京都立八潮高校の弓道部の皆さんと一緒に収録の後に撮りました。

日本の文化を海外に発信し続ける僕は日本経産省の招待で茂木健一郎氏や秋元康氏といった凄い方達と同じカンファレンスで講演できたことをとっても光栄に思いました。嬉しかったよ^^

映像を使って日本の文化を世界に発信したくて、自分のテレビ番組をプロデュースする機会に巡り会った。カルチャージャパンは国内のTokyo MX TVだけではなく、アジア全土、アメリカ全国にも放送しています。世界中にも放送できるように頑張っています!日本のポップカルチャーだけではなく、もちろん「ザ・ジャパン」のネタもしっかりと紹介しています。収録の様子やゲストとの絡み合い写真記事はこちらで見られます

第一期の短いトレーラーは下で見られます。


お時間がある方はこの一時間総集編で第一期楽しめます。

月曜日

あなたは一週間の中でどの曜日が一番嫌いですか?
僕は周りの人にこの質問を時折しますが大抵返ってくる答えは「月曜日」だ。
そしてその理由はというと「仕事、学校に戻らなければいけないから」だそうだ。これは一見ありがちな答えですが興味深くもありますね。

もし本人が学校または仕事に行くのが嫌いというのを理由に月曜日を嫌っているのであれば、何故その人は繰り返しその場へ戻るのでしょうか?僕が思うに、そういう人達は自分に適していない職場環境で働いていたり、自分に合っていない分野を学習しているのではないのでしょうか?月曜日だけでなくその他の曜日をより楽しむ為にも違うものを探すべきだと思う。自然と仕事、学校を楽しんでいるのであれば月曜日を嫌う理由に「仕事、学校」を挙げる人はいないでしょう。

量より質

このレッスンを教えてくれたのはプロジェリア症候群に苦しむ少女アシュリーを紹介した感動的なドキュメンタリー番組です。 プロジェリア症候群を煩う患者は通常の13倍のペースで老いていき、800万人に1人発症すると言われている難病です。
この症状を負った患者の平均寿命は13歳。当時のアシュリーは14歳の誕生日を迎え、本人は自分がどのような状況に置かれているのかを理解していた。しかし、彼女は死を覚悟しており、今まで人生を存分に楽しめたと言っていました。彼女にとって大切だったもの、それは友達との出会いを幸福である事だった。
僕たちにとっても大切であるべきものはより長く生きる事ではなく、如何に充実した日々を送れるかではないかと思う。

死は現実

刺殺、ひき逃げや事故など、ニュースで亡くなられた方達の報道をよく耳にする。しかし、僕達、或は当の被害者はそういった死を真剣に考える機会は極めて少ないのではないでしょうか?
家の購入時、不動産会社の仲介人に遺書の書き方について伺った事がありますが、彼は驚いた表情で遺書は大体60歳前後から書くものだと返答した。すべての人間は必ず60歳まで生きるのかよと思った。

当然ながら、人間誰しも寿命まで生きられるという保証はどこにもない。例え地球上で最も「安全」な地域に住んでいて、健康的に過ごしていたとしてもナイフ、銃弾、又は飲酒運転車によって人生が断ち切られる可能性は十分ある。30年後、或は翌朝….と実際死が何時訪れるかを知る術は我々にありませんが、一つ分かっている事は「人は誰しも死ぬ」という事だ。僕達は死が現実であるという事を認識しなければいけない。死の認識、それは皆が何れ集めるジグソーパズルの最後のピースなのだ。

ジグソーパズル

人生はジグソーパズルの様なものです。最初は何処にどのパーツが嵌るのか分かりませんし、必要なピースが何処にあるのかも分かりません。しかし、人生でそれらパーツを一生懸命探し続け、どこに嵌まるかを当てなければいけない事には変わりはありません。あなたに起る全ての出来事はパーツだ。もしもいつもの学校、職場に退屈し、「もしこうであれば…」と自分に問いつめている様であれば、それはそこでパーツを拾い尽くしたサインだ。

残り時間がわずか

現在の科学技術を持ってすれば人を月に送り込む事もできますし、原子を分裂させる事もできます。しかし、人類が未だかつて成し遂げていないものは棚にある「時間のペットボトル」を売買する方法です。時間とはコンビニ等で普通に手に入る代物ではありません。時間は、あなたが生きている限り何時も隣り合わせにいますが、決して見方をしてくれる事はありませんので、使い方には常々注意する必要があります。

人生は短い。本当に短い。若い頃はあまり自覚がありませんが、年を取っていくうちに段々とその事実を気付くようになる。僕は現在30代後半であり、何事もなく老後まで生き長らえるという甘い幻想は持ち合わせていない。皆さんの様に何時死が訪れるか分かりません。しかし、少なくとも好きな事をやりながら死んでいけたという事だけはここで一度申し上げたいと思う。僕は僕に与えられた時間に十分に満足していますし、残りの人生も存分に生きていきたいと思う。皆さんも悔いを残す事無く生きていける事を信じている。

そして僕の残りの人生の全ては日本の文化の素晴らしさを世界の隅々まで浸透させて行きたい。

皆さんは既にお気づきかもしれませんが、僕は月曜日が大好きだ ^o^

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